久美浜の歴史

龍伝説のまち久美浜

久美浜龍伝説
龍にまもられた悠久の里・京都 久美浜

竜神伝説の城下町<龍にまもられた悠久の里・京都 久美浜>

くりゅうくんと散歩

◆ねえ、くりゅうくん。あのきれいなお山はなんていうのかな。

◆あれは、「高龍寺ケ岳」といって、久美浜町のいろんなところから眺められる。地元では熊野富士ともいわれみんなに親しまれている山だよね。小天橋から、ジャージー牧場から、川上谷川流域からまた佐濃谷川流域平田や一分からの眺めるのもいいね。

◆高龍寺ケ岳(697m)からの眺めも日本海から但馬方面、360度の大パノラマだよね。

◆川上谷っていうと、須田の湯船坂古墳から金銅装双龍式環頭大刀が出土したって聞いたけど、相当の人物がいたってことだよね。

王者の谷に対の親子龍

◆紀元前の頃、王者の谷(現在の須田)に川上摩須良王(かわかみますらおう)という豪族が住んでいて、その娘川上摩須良女(かわかみますらめ)は、丹波の平定を命じられた大和王朝の王族・丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)(第10代崇神(すじん)天皇代・四道将軍の一人)と婚姻し、その子比婆須比売(ひばすひめ)は、第11代垂仁(すいにん)天皇の后となり第12代景行(けいこう)天皇を生んだと伝わっているよ。(古事記)

◆そうだね。歴史上有名なヤマトタケルは、景行(けいこう)天皇の子だから久美浜のおばあちゃんって感じだね。古墳から金ぴかに輝く金銅装双龍式環頭大刀が出て、1.2mで対になった親子の龍が玉をくわえたデザインとなっているけど、相当の権力者がいたってことだよね。

◆また、かぶと山は昔からご神体として地域のみんなにあがめられてきたんだけど、この頂上にある熊野神社は、川上摩須良王(かわかみますらおう)が孫娘の比婆須比売(ひばすひめ)命が皇后になったことを祝って出雲から勧請したと伝わっているよ。

◆丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)は、峰山の船岡に住んだとされているけど、久美浜には丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)にまつわる史跡も多いんだよ。

龍にまもられた町

◆まず、久美浜湾だけどちょっと日本海の空から見てみると龍に似てるよね。そして、この久美浜湾に張り出している大明神岬は丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の墓があるとも伝わっているけど、この大明神岬の姿が海面を進む龍に似ており、龍の化身が住むともいわれているよ。

◆丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)は、崇神(すじん)天皇から山陰地方の平定を命じられ、出雲から神様を迎えて神谷神社を創ったらしい。また武士であるので、いつも刀を腰から下げていたわけだけど、武運長久を祈り「国見剣(くにみのつるぎ)」を祀ったとされるのが、太刀宮神社で、久美浜の地名の由来は、「国見(くにみ)」から「久美」となったともいわれているんだよ。

◆神谷太刀宮神社には、その刀で切ったといわれる岩が残っているし、家来だった村丘神(村丘神社のある奥馬地区)は忠臣を誓っていまでも例祭に大根をお供えしている習わしがあるんだよ。

◆ところで、久美浜湾から龍がのぼるのを見たっていうのはほんとうかい。

◆そうなんだよ。時代は変わるけど、一遍上人(時宗の開祖1239-1289)が久美浜に立ち寄った際、久美浜湾から立ち昇る龍を見たと一遍上人絵伝にも残っているよ。

◆それで、龍の頭をかたどったドラゴンカヌーは、今や久美浜の夏の風物詩となっているね。

◆そうだね。久美浜は古代から龍に守られたまちともいえるね。

◆中国では、古来から四神五獣(青龍、白虎、朱雀(鳳凰)、玄武(亀・蛇)、麒麟)といって、龍も伝説の生き物として非常に尊いものとされている。

◆久美浜の手付かずの自然、箱庭のような景観は、久美浜の龍神が古代から守ってきてくれたものなんだね。


丹後王国「久美浜」波乱万丈の歴史

丹後建国1300年

久美浜には波乱万丈の歴史があります!

☆原始時代(縄文~弥生時代):紀元前1世紀~紀元2世紀

  丹波道主命説(BC88)。娘ヒバス姫、垂仁天皇(BC29-AD70)の后となる。

☆原始時代~古代(古墳時代):紀元2世紀~590年頃

  丹後は4世紀~6世紀に栄えた(丹後王国)

☆古代(飛鳥時代):590年~710年頃

  古代以降大和政権に敗れ、丹後は辺境となり、歴史は消されてゆく。

★古事記も日本書紀も大和朝廷関係者で作られたもの、神々も伊勢神宮へ集約され、地方の神々も影が薄くなっていく。

☆奈良時代(平城京):710年~794年

  713年(和同6年)丹波を分けて5郡に、熊野郡できる。

☆平安時代(平安京)

  久美庄(久美浜湾周辺部)となる

☆鎌倉時代(1192年~1333年)都から有名な僧、天皇勅使が多く訪れる(本願寺如意寺・久美の浜)恵心僧都、法然上人、一遍上人(国宝「一遍上人絵伝」)など

☆南北朝時代(~1392年)

  久美浜は丹後有数の人口密集地(丹後御檀家帖)・三谷に白川城(伊賀氏居城)

☆安土桃山時代(1573年~1603年)

  1580年織田信長が細川幽斎(藤高)に丹後を与える。久美浜は松井康之が松倉城へ入城。20年間統治。「うなぎの寝床」と呼ばれる町家や道路、河川も区画整理し城下町の形を整えた。(平成23年1月18日「京都府景観資産」登録・城下町に由来する風情ある久美浜の街並み)

宗雲寺

松井康之<宗雲寺>再建

(四国ミニ88か所めぐり庭園)

 

1600年細川家功績により九州熊本移封、京極高知、丹後入封(1601年)

晩秋の宗雲寺

 

 

(晩秋の宗雲寺:久美浜有数の紅葉の名所です)

☆江戸時代(1603年~1863年:265年間)

 東稲葉様宅に展示された「屋形舟」

 久美浜は「海道」と呼ばれ、北前舟による貿易でにぎわう(日本海⇒久美浜湾)・稲葉本家、湊五軒家などが勃興、上方、都から文人墨客来訪多し。

 

代官所をイメージした<久美浜駅>

 1735年(享保20)久美浜代官所設置(丹後・但馬7万石)・代官塩谷大四朗の活躍(久美浜湾の魚による生業多し、新田開発)

(代官所をイメージして建てられた久美浜駅)

☆明治維新(1868年)久美浜は久美浜縣(5か国23万石)の県庁所在地となって繁栄。一区内の複数寺院を縣立小学校、縣立病院として活用。

  1871年豊岡縣へ編入される、隆盛は一気にしぼむ。

  1876年(明治9年)久美浜・京都府へ編入。一区は郡都として繁栄

☆大正3年 完成した水戸口を活用、城崎~久美浜間、発動汽船定期航路開通。

☆昭和4年12月15日 宮津線(豊岡~久美浜間)開通(稲葉家の功績大)

SL

☆昭和7年8月10日 宮津線全線開通

 

 

☆昭和33年5月3日 昭和の大合併(一郡一町・熊野郡久美浜町誕生)

☆平成16年    平成の大合併(熊野郡が消える)

現在:京都府京丹後市久美浜町

 

 

 

 

 

 


久美浜の歴史・細川家とのつながり

細川ガラシャ(細川ガラシャ:明智光秀の三女たま・1562-1600)

     戦国に散った一輪の花

 

【久美浜と細川家とのつながり】

戦国時代に細川家は丹後の国の領主となり、松井康之は久美浜城を任せられ<久美浜城・別名松倉城>城主になりました。松井一族の働きぶりを見た「豊臣秀吉」は康之を石見半国18万石の大名にとりたてると申し出ましたが康之はこのまま細川家に仕えることを希望して辞認しました(寛政種修諸家譜)

 

慶長5年(1600)関ヶ原の戦いの際には細川藤考の子忠興(細川ガラシャの夫)が東軍の徳川家康に属したため、松倉城は西軍によって焼き払われました。戦後には忠興は豊前国小倉城主として移封となり、また松井康之もまた豊後国杵築に移封となったため<久美浜城・別名松倉城>は廃城となりました。

細川ガラシャ:関ヶ原の合戦の折り、人質として夫の足手まといになることを潔して悲運の最期をとげた(1600・38歳)

散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

このように久美浜と細川家は深いつながりがあります。