丹後建国1300年「京丹後七姫」伝説

平成25年 丹後は建国1300年を迎えました。丹後各地でイベントや催しが行われますが、京丹後には「京丹後七姫」の伝説があり、その七姫伝説のゆかりの地を紹介します。

紹介させていただく「京丹後七姫」の絵はねぶた絵伝統工芸士「雅号:橘鶴泉」氏の作品です

 

細川ガラシャ細川ガラシャ<戦国に散った一輪の花>

ゆかりの地:京丹後市弥栄町味土野(道路は非常に狭く通行に注意)明智光秀の三女玉は丹後田辺城(舞鶴市)の細川忠興に嫁いだが(1578・16歳)本能寺の変(1582)で父が信長を討ち、弥栄町味土野へ幽閉された。ここでキリスト教に出会い1582年「ガラシャ」の名を授かった。関ヶ原の合戦の折り、人質として夫の足手まといになることを潔して悲運の最期をとげた(1600・38歳)

 辞世の句 散るぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ

 (いずれの絵もクリックすると大きくなります)

羽衣天女羽衣天女<舞い降りた美しき天人>

ゆかりの地:京丹後市峰山町鱒留(比治の里)駐車場あり・二つの羽衣伝説があり、一つは日本最古と思われる羽衣伝説。もう一つは羽衣を隠した狩人「さんねも」と結ばれた天女が三人の娘をもうけたが再び天上へ戻っていったいう伝説。いずれも天女が舞い降りた場所は磯砂山の中腹にある女池と言われている。磯砂山の山頂には<羽衣天女>のモニュメントがあります。

 

 

 

川上摩須郎女川上摩須郎女(かわかみのますのいらつめ)<美しき将軍の妻>

ゆかりの地:京丹後市久美浜町須田(伯耆谷)丹波の国(現丹後)国王として君臨した四道将軍「丹波の主命」の妻、息女「ヒバス姫」が垂仁天皇のお后となり景行天皇をはじめ四男一女をもうけたといわれています。川上摩須郎女の孫娘が皇后になったことをよろこび建立したのが景勝地兜山山頂の熊野権現(毎年4月23日に祭)。(兜山公園駐車場あり)兜山は昔は女人禁制の山で、旧町名「熊野郡久美浜町」の名前の由来ともなっています。

 

 

 

s-乙姫乙姫<竜宮の姫君>

ゆかりの地:京丹後市網野町浅茂川(駐車場あり)丹後の国風土記に伝えられる「浦島太郎」伝説が最古と言われ、水江浦島子(みずのえのうらしまこ)の名前になっている。浦島伝説ゆかりの神社・浅茂川海岸に鎮座する嶋児神社に祀られています。

 

 

 

s-小野小町

小野小町<美しすぎた情熱の歌人>

ゆかりの地:京丹後市大宮町五十河(駐車場あり)平安時代の六歌仙の一人で絶世の美女として知られる「小野小町」は、深草小将の猛烈な求愛に疲れ果て、京の都を逃れて大宮町五十河に隠れ住んだと伝わる。五十河地区には小町が開基したと言われる妙性寺、小町の墓と伝えられる小町塚があり、一帯は公園として整備されている。

九重の 花の都に 住まはせで はかなや我は 三重にかくるゝ

 

s-間人皇后間人皇后(はしうどこうごう)<優しき土地に名を贈る>

ゆかりの地:京丹後市丹後町間人(たいざ)(駐車場あり)母子像が日本海を眺めるようにたたずむ。聖徳太子の御母である「穴穂部間人皇后(あなほべのはしひとのひめみこ)」は曽我氏と物部氏の騒乱をさけ、太子とともにこの地「間人・大浜の里」に身を寄せたと伝わります。大和の国へお帰りになるにあたって皇后自らの名を贈られたが、住民たちはおそれ多く感じ皇后が退座されたことにちなみ<たいざ>と読むことにした。

 

 

静御前静御前<悲運の英雄に愛された舞姫>

ゆかりの地:京丹後市網野町(駐車場あり)網野町磯で生まれ、京の都で指折りの白拍子として有名になり、源義経に見初められました。義経と頼朝の不仲により義経と共に追われる身となり、吉野山中で義経と別れ故郷の網野町磯に戻り、夫の無事を祈りました。磯周辺には静御前を祀る「静神社」や義経が訪れた時にまつわる岩などが残されています。

 

 

 

 丹後建国1300年の今「歴史街道 京丹後」にぜひお越しください。